沖縄戦の絵展

島人 痛恨の記憶

創価学会沖縄青年部では、1982年(昭和57年)以降、沖縄戦体験者が描いた「沖縄戦の絵」の巡回展を県下47市町村で開催し、社会に大きな反響を巻き起こして参りました。(1995年以降は、『沖縄からのメッセージ』展として全国72都市を巡回)

「沖縄戦の絵」は、多くの庶民が直接描いた絵であり、あの“鉄の暴風”のなかで、目に、心に、生命に刻まれた、恐らく生涯消えるはずもない戦場のひとこまとして描かれたものばかりです。その絵のほとんどはたどたどしいものではありますが、絵の巧拙を超えて、描いた人の悲しみ、憤りが、見る人の心に突き刺さってきます。またその一点一点が、米軍や旧日本軍による戦争記録とは違い、民衆(島人)の視点で戦争の実像をとらえたものであり、その意味からこれまで人々の視覚にふれなかった空白の部分を埋めるのに大きな意義を持つ貴重な歴史的資料でもあります。

「沖縄戦の絵」パネル貸出のご案内

創価学会沖縄青年部として「沖縄戦の絵」貸出用パネルを制作致しました。貸出を希望される方は沖縄国際平和会館(TEL 098-860-3333)までご連絡下さい。

疎開

dummy昭和19年7月7日、沖縄でも急遽、老幼婦女を中心に疎開命令が出た。学童疎開「対馬丸」は8月22日午後10時、悪石島の北西方11キロの海上で米潜水艦の魚雷攻撃を受け沈没。乗客約1千700人のうち、学童700人を含む1千500人が死亡した。

沖縄を出航した学童疎開船は、敵の攻撃をうけ海中深く沈められた。

10.10空襲

dummy昭和19年10月10日、県都那覇市に第5次の攻撃が集中、無差別攻撃が行われた。空襲で那覇市の市街は90パーセントが灰燼に帰した。この空襲は、来るべき“沖縄戦”の悲劇を予告するものであった。

那覇市が灰燼に帰した10・10空襲。5万余の市民が焼け出された。

離島上陸

dummy昭和20年3月26日、午前8時4分、米軍は慶良間列島の阿嘉島に上陸。その後座間味島、渡嘉敷島にも攻め入り、慶良間の島々をあっけなく占領した。

伊江島で機銃掃射にあう13歳の私と10歳の妹。

集団死

dummy集団死は、地理的には、慶良間列島、伊江島、沖縄本島中部など激戦地のほとんどの地域で多発した。自決の多くの場合、家族単位がか壕単位で同時一斉に行われた。

至近距離で爆発音を聞いた瞬間、養女の頭が吹き飛んでいた。

本島上陸

dummy慶良間諸島に上陸して7日後の昭和20年4月1日、米軍は日本軍の反撃を受けることなく“無血上陸”してきた。上陸から2日目の4月3日、米軍は、仲泊と石川を結ぶ線で本島を南北に分断。それから、日本軍の組織的抵抗が終わる6月23日まで、約90日間にわたって鉄の暴風が吹き荒れた。

当時6歳の私と1つ違いの兄。ゼンソクの姉がいるため、あの壕からこの壕からおわれ、隠れる所もなく3つの岩場で家族6人が暮らしている状態でした。我家へ1日1度、食事を作りに行くのが日課でした。つい30分前まであった製糖工場が跡かたもなく燃えつきてなくなっていました。暗い夜道を母と2人で歩いていると、何かにぶつかり転びそうになりました。よく見ると、まだ歩けないハイハイしかできない幼い子どもでした。おそらく母親が抱きかかえていたために、助かったのでしょう。母親も死も知らず死体にすがりつき、お乳を求めている哀れな幼な子の姿、今でも鮮明にうかんできます。

スパイ容疑

dummy日本兵は沖縄住民に対して数多くのスパイ容疑・拷問、虐待を加えた。これは、日本軍の潜在的な沖縄への差別視、同胞感の欠如を一挙にさらけ出し、沖縄戦の悲劇に、さらに輪をかけることになった。

米軍の降伏勧告ビラを持っていたため、スパイ扱いされた少女。拷問に息絶えた。